2011年12月4日日曜日

「なぜ」と問うたび美しくなる

何回か前に、東京都現代美術館のチーフキュレータの長谷川祐子さんが、NHK出版新書から2011年11月10日に出版された、『「なぜ?」から始める現代アート』に関して、何か書いてみたいと書きましたので、今日はそれを行ってみたいと思います。

最後まで読んで、最後に戻ってきたのが、はじめにの第一行目に書いてある、「私たちは「なぜ?」とか「これは何?」と問うたびに深く美しくなる生き物です。」という一文です。長谷川祐子さんはこの本の中で、色々な作家や、いろいろな「なぜ」に関して書かれています。それらはすべてこの最初の文につながっているように思います。

現代美術にかかわる人々は普通の美術館にくる人々から「現代美術は判らない印象派までなら判るのに」と言われ続け、その反論として「判らない事が良くはありませんか」と言うことがこの言葉になっているのかもしれません。でも、この中には単に反論でなく真実があるように思われます。少なくとも私の場合には。この「なぜ」がアートを見続ける原動力になっています。

なぜ、松井紫郎は、ぐにゃぐにゃなシリコンラバーを使った作品を作っているのだろうか。
なぜ、ホンマタカシは、林の雪の上に血かペンキかわからない赤いものがたれた写真をとっているのだろうか。
なぜ、束芋は、古い日本の台所の3次元空間を2次元の影像にしているのだろうか。
なぜ、高嶺格は、パレスチナ人問題を語る女性の影像を作っているのだろうか。
なぜ、名和晃平は、剥製のうえにレンズのように見える球体をはりつけた作品を作っているのだろうか。
またまた、阿弥陀のような本来は抽象的な概念を、なぜ擬人化して表現しているのだろうか、また、その擬人化の工夫にはどのようなものがあるのだろうか。

ここに挙げたのは、今年私が観て興味を持ったものの一部ですが、みんな「なぜ」ですね。

視覚表現のアートには、とくにこの「なぜ」を喚起する力があるように感じます。
他の芸術との比較で言うと、文学は、言葉で表現するために、「なぜ」の定義をしたり、「なぜ」を解いたりする方向に向かってしまい、「なぜ」を読者に投げかける力は美術に及ばないのではないでしょうか。また、音楽を聴いて、「なぜ」とはあまり思わないですね。

というわけで、アートを通じて「なぜ」をたくさん見つけたいですね。
長谷川祐子さんが、著作のなかであげているアーティストに関しても、観る機会を作りたいと思っています。

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