「没後150年歌川国芳展」が大阪市美術館、静岡市美術館からの巡回で東京に来ています。森アーツセンターギャラリーで2011年12月17日から2012年2月12日の開催です。昨日は仕事が休みだったのでこれを見に行きました。もう今週は休みになっている美術館が多い中、ここは年末年始もオープンしています。
歌川国芳は1797年(寛政9年)生まれ、1861年(文久元年)没です。
東洲斎写楽が作品を世に出した年は寛政6年ですから、写楽をプロデュースした蔦屋重三郎などが活躍した浮世絵全盛期の後に生まれたわけです。
当時の社会環境を調べてみると次のようになります。
江戸四大飢饉の一つ「天保の飢饉」が発生するのが1833年から1839年。
貨幣経済が進んだことによる幕府財政の逼迫に対応するために、老中水野忠邦が農業を中心として社会を再興しようとした天保改革が行われたのが1841年。この時には寄席が封鎖され、歌舞伎も江戸の中心から移転させられました。
浦賀にペリーが黒船で来航したのは1853年。
このような波乱に富んだ中で、もしかしたら現在の日本にも通じる、このままは続かないという危機感と、何かを行おうとしてもできないという閉塞感の中で、歌川国芳は生きたことになります。
歌川国芳が注目されるのは1827年から出版された「通俗水滸伝シリーズ」だと言われています。このころ伝奇小説である読本(よみほん)が流行るようになり、曲亭馬琴などの人気が高かったそうです。その中で水滸伝も人気があったようで、国芳も水滸伝の英雄を描いた作品を出したものと思われます。
水滸伝は中国の四大奇書の一つで、北宋の徽宗帝のころ起こった反乱に題をとり、英雄達が梁山泊に集結し悪い支配者階層をやっつけ国を救うという120回に及ぶ長大な物語です。最終的には反乱を起こした人々も宋の王朝に忠義をつくすという話だということで、儒教的にも好ましい話だと言うことになっていたようです。日本では1728年以降に和訳され広まりました。
さあ、国芳展に行ってどうだったんだという話をしなくてはいけないのですが、正直、講談的な物語や、昔の武士が凄んで怖い顔をしている絵や、赤と青の対比を使ったどぎつい色の使い方など、どうも抵抗があります。近代化を進める中で、捨てるべき封建的なものといった先入観があるのかも知れません。
私は、白髪一雄さんが水滸伝をテーマにした作品を作られているのを横須賀美術館で見た時も、なぜと思ってしまいましたから、これは生理的なものかもしれませんね。
見て良かったと感じたのは、《坂田怪童丸》や《相馬の古内裏》などの構図の大胆さ・面白さや、《金魚に目高》など動物を使った作品のユーモラスさ、でしょうか。
世の中には国芳がすごく好きという人もいて、橋本治さんは、『ひらがな日本美術史6』新潮社刊の中で、約40ページを費やして歌川国芳のことを書いています。国芳は人による好き嫌いが激しい絵なのでしょう。
日経ビジネスオンラインに掲載された浮世絵研究家の岩切友里子さんの記事「歌川国芳幕末の奇才浮世絵師」によると、2009年にはロンドンのロイヤル・アカデミー・オブ・アーツで「KUNIYOSHI展」が開催され、ロンドンの人に評判は良かったということです。歌川国芳にはグラフィティ、マンガ、サブカルチャーに通じるところがあるようです。
今回も、会場の中は若い人がかなり多いという印象でした。
今回の展覧会は前期(12月17日-1月17日)と後期(1月19日-2月12日)で作品がほとんど入れ替わりますから、興味のある方は前期と後期2回行く必要があります。
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