2011年11月29日火曜日

アートのなぜ、ポリティックス編

東京都現代美術館のチーフ・キュレーターをしている長谷川祐子さんが、2011年11月に、NHK出版新書から『「なぜ?」から始める現代アート』を出版されました。現代美術が好きな私としてはすぐに買って読んでみました。
この本では、日本画の伝統、場所、科学とアート、見ること、身体性、ポリティックス、境を超える、といった切り口で現代アートを考えてみるという構成になっています。

まだ一読しただけなので、内容に関しては、もう少し考えてみてから、なにか書いてみたいと思いますが、今日は「ポリティックス」というところに引っかかってみました。

なぜか、今の日本のアートはポリティックスとは無縁なもののように思っていたことに気づきました。丸木位里・俊の《原爆の図》、chim↑pomのパフォーマンスで注目を集めた岡本太郎の《明日の神話》などの時代のあと、ポリティックスに関わりをもったアートはあったのだろうかと。

長谷川祐子さんは次のような作品を、ポリティカルとして紹介しています。
メディア・アーティストの八谷和彦さん原作のアニメーション《おなかが痛くなった原発くん》。私的にはこれは何をやっているんだという感じですが。
ピカソの《ゲルニカ》。これはまあ異論はありませんね。
村上隆さんのスーパー・フラット。これは政治的というよりも、巧妙にしかけるというような意味だと思いますが。
マシュー・バーニーの《拘束のドローイング9》。これはグリーンピースに攻撃されて出航できなくなった日本の捕鯨調査船、日新丸。たしかにポリティカルですね。
フランシス・アリスの《グリーンライン》。これはパレスチナとイスラエルの境界線上にペンキを垂らしながら歩くというもの。

日本ではポリティックスのアートはないのかなと考えていたら、思い出しました。ありましたよ。
昨年、横浜美術館で行われた高嶺格の「とおくてよくみえない」の中の展示です。アメリカを表すすごく愛国的な粘土のかたまりと格闘する人の様子を映像化した、《God Bless America》。在日朝鮮人との微妙な感情を表現した《在日の恋人》。これらはまさしくこれはポリティカル。高嶺さんの真摯な問題意識がユーモラスな表現の中に表現されていました。

こんごも、アートとポリティックスのテーマも追っていきたいと思っています。
長谷川祐子さんの他の切り口も、私なりに見ていきたいと思います。

2011年11月28日月曜日

法然と親鸞、宗教的テーマをどう見るか

2011年11月27日に、東京国立博物館の特別展「法然と親鸞 ゆかりの名宝」を観に行きました。この展覧会は平成館で2011年10月25日(火)から2011年12月4日(日)に開催されているのですが、前半と後半でだいぶ展示替えが行われているので、観に行くのは2度目です。

後半に展示されているものの中での見所をいくつか挙げると、
知恩院の《法然上人行状絵図》(四十八巻伝)巻第三十七、法然承認が臨終にあたって、阿弥陀如来が来降する場面。法然上人は釈迦の涅槃のように横たわっており、その左の方から阿弥陀如来、観音菩薩、勢至菩薩が白い雲に乗り来迎してきます。周りに集まった人には阿弥陀如来が見えないのでしょうか、皆法然上人のほうを向いています。まただれも嘆き悲しんでいるように見えないのは極楽への往生は悲しいものではないからなのでしょうか。
西本願寺の《親鸞上人影像》。これは似絵の代表的な作品だそうです。顔は細い線で繊細に描かれ、着物は太い線で大胆に造形されています。親鸞上人らしく眉が少しつり上がっており、宗教的な信念や強い意志が感じられます。
神奈川県光明寺の《当麻曼荼羅縁起》下巻、女の人が当麻曼荼羅を織っている場面が描かれています。
禅林寺の《山越阿弥陀図》。山並みを超えて大きな阿弥陀如来が現れます。山のこちら側には雲にのった観音菩薩と勢至菩薩が少し腰をかがめてこちら側に近づいてきます。山の上には波が見えるので、山の向こうは海なのでしょう。知恩院の《阿弥陀二十五菩薩来迎図(早来迎)》にくらべると静的な造形になっています。

今回の展覧会も面白いなと思って観ている訳ですが、反面、このような宗教作品をこんなふうに観てても良いのかなという思いもあります。私は、宗教的な絵画を宗教的な知見を深めたり確信を深めたりしようとして観ている訳でなく、図像表現の面白さに惹かれて観ているわけです。それは作品の作者の意図していることではないですよね。
会場に来ている方の多くは、浄土教の信者なのでしょうか、美術愛好家なのでしょうか、どうなんだろう。


2011年11月27日日曜日

横尾忠則さんの『芸術の陰謀』評

今日(2011年11月27日)、朝日新聞朝刊の書評欄に、横尾忠則さんがジャン・ボードリヤールの『芸術の陰謀 消費社会と現代アート』に対して書いた記事が載っています。

横尾忠則さんの趣旨は次のようなものです。

  • 1960年代のポップアートを語る上でボードリヤールの「消費社会と現代アート」は的確なフレーズであり、その代表的なアーティストはアンディ・ウォーホールであると言うのはその通り。しかし・・・・
  • ボードリヤールが言っている、「現代アートは無価値・無内容」は特に珍しい言説ではなく、フランス人の米国へのコンプレックスのようにも感じる。
  • ボードリヤールは人類学的な視点から(アートの視点ではなく)【()内は私の独断の補足です】、誰もが芸術の陰謀に加担している(意味なく価格をつりあげるような体系を作っている)というが、それがどうしたと言いたい。
  • ボードリヤールは「無価値・無内容」と言っただけで、その後何も示唆しないで終わっているが、実作者の創造の地平にたつ時、こんなことで幕は降ろされるべきではない。作品が「凡庸」であろうがなかろうが、未来は芸術家にとっては無制限の聖域である。
確かに、横尾忠則さんが言っているように、ボードリヤールは人類学的・社会学的な視点にたっていて、現代人は何かあるものに対して、価値があるとどう認識するのか、といったことに興味をもっているように思われます。
それに対して、横尾忠則さんは、やはり実作者の立場で、そんなことは関係なく創造を追求しているのだということになるのでしょう。

私には、どちらのテーマにも興味がありますね。

2011年11月26日土曜日

観無量寿経を読む

今、東京国立博物館の特別展「法然と親鸞 ゆかりの名宝」に11月3日に行きましたが、どうせならと、元をたどって、浄土三部経のひとつ観無量寿経を読んでみました。
岩波文庫、浄土三部経(下)、中村元・早島鏡正・紀野一義訳注。
ちなみに、観無量寿経のサンスクリット語文書は発見されてなく、その成立は良くわかっていないようです。

その内容を紹介しますが、お経に馴染んでいる方には、本当に釈迦に説法のようで申し訳ないと思います。私のメモだと思ってください。

概要。
昔、ラージャグリフ(王舎城)市にアジャータシャトル(阿闍世)という太子がいて、父なる王ピンピサーラを幽閉し、またピンピサーラを助けようとした母ヴァイデーヒー(韋提希)も幽閉してしまう。ヴァイデーヒーが嘆くと、それは釈迦につたわり、釈迦が目の前に現れる。そこでヴァイデーヒーはアミタ仏の〈幸せある所〉に生まれたいというと、釈迦は、仏国土を観想することにより清らかな行いができるようになる。そしてそのことによって西方の〈幸せのある所〉に生まれることができるようになると言う。
この序の部分の後に、13段階の観想方法が示される。
さらに、極楽世界に往生する者を、上品上生・上品中生・上品下生・中品上生・中品中生・中品下生・下品上生・下品中生・下品下生の九品に分けて、それぞれの仕方で極楽往生できるという、3観想が示される。
最後に釈迦の弟子のアーナンダーが、この教えのどこが一番大切ですかと訪ねる。すると釈迦が言われるには、仏を観ることに集中すれば、無量寿仏とアヴァローキテーシヴァラ(観音)菩薩とマハースターマブラーブタ(大勢至)菩薩を観ることができる。また、ただ仏の名と二人の菩薩の名を聞いただけでも、永遠に生と死に結びつけられ罪をまぬがれることができる。

というわけで、阿弥陀三尊や、阿弥陀来迎図には、阿弥陀仏、観音菩薩、勢至菩薩が表現されることになります。

また当麻曼荼羅には、観無量寿経にしたがい(感無量寿経変)中央に阿弥陀浄土図があり、その周辺に、王舎城の悲劇、十六観想、九品往生が描かれています。

今回の東京国立博物館の特別展とは離れますが、敦煌莫高窟の第45窟などにも、この「観経変」の図があります。観無量寿経を読んでから改めて観ると、新たな発見があるかもしれませんね。試してみよう。

ついでに、今までまったく気がついていなかったのですが、東急大井町線の九品仏の駅名の由来となっている「浄真寺」にある九体の阿弥陀仏は、それぞれ九品往生を表していたんですね。また今度行ってみよう。




2011年11月24日木曜日

ジャン・ボードリヤール 『芸術の陰謀』

1996年5月20日にフランスの『リベラシオン』にジャン・ボードリヤールが書いた評論「芸術の陰謀」が日本語に翻訳され、2011年10月にNTT出版から他のインタビュー記事などとともに『芸術の陰謀』として出版されました。
15年の年月を超えてこの評論のインパクトがあるということでしょうか。

『芸術の陰謀』の話に入る前に、関連の話を少しだけ収集してみましたので、紹介します。
ジャン・ボードリヤールは、1981年に『シュミレーションとシュミラーくる』を出版し、現代はすべてがコピーの時代であると言いました。
ここからシュミレーショニズムというアートのムーブメントが発生してきます。《マイケルジャクソンとバブルス》像で有名なジェフ・クーンズや、自ら仮装して写真を撮ることで有名なシンディー・シャーマンなどが、シュミレーショニズムのアーチストと言われています。
日本では椹木野衣さんは、1991年に『シミュレーショニズム ハウス・ミュージックと盗用芸術』を書いて、美術評論家としての活動を始めました。

このように、アート・シーンに影響を与えたボードリヤールですが、『芸術の陰謀』では、現代アートは、ハイパーリアルになったクールで透明でコマーシャル・メディア的な世界で、無価値・無内容になったと言っています。そして無価値・無意味なものを取引するインサイダー取引がはびこることになったとも言っています。当時、業界の人は、この無価値・無意味に反応したのか、大いに反発したようです。
そういう本が、今の日本で翻訳されて出てきたわけです。

この議論に中には、アート作品の価値とは何か、それにどう値段がつくのか、本物とコピーの区分けに意味あるのかなど、今の時代だからこそ考えてみたい重要なテーマが含まれているように思われますね。

2011年11月23日水曜日

iPhone4SケースとAndy Worhol

携帯電話をiPhone4Sに変えたのでケースを探した所、AppleStoreでアンディ・ウォーホールの作品をテーマにしたものが見つかったので、早速入手しました。
もともとの作品は、前衛映像作家であるジョナス・メカスがエンパイアステートビルを5時間にわたって撮影したフィルムを、アンディ・ウォーホールが8時間に引き延ばして作品にしたもの。
また嬉しかったのは、パッケージの中に、アンディ・ウォーホールの言葉を書いた紙切れが入っていたこと。そこには、"If you want to know all about Andy Worhol, just look at the surface of my paintings and films and me, and there I am. There's nothing bihind it"。
スマートフォンのケースとしての機能は良くわかりませんが、大変満足しています。これを見て共感してくれる人は少ないでしょうけどね。

プリュス・ジ・アート・フェア 2011

2011年11月20日に、東京美術倶楽部でおこなわれている東美アートフォーラム、"プリュス・ジ・アート・フェア 2011"に行ってきました。

普段美術館には行っても、アートフェアにはあまり行った経験が無いので、今日は事実の報告と感想ということになります。

これは昨年TCAF(Tokyo Contemporary Art Fair)から脱皮して作った"プリュス"の2011年版です。26のギャラリーが参加しています。百年後の骨董を目指したもので、今年のテーマは「誇り」です。今年が東日本大震災の年ゆえのテーマでしょう。

出品されていたギャラリーと作家の一部を紹介します。

GALLERY IDF:      佐藤香菜
GALLERY点: 小曽川瑠那、北本真隆
北井画廊:   小山みづほ、綱島礼子、八戸香太郎
万画廊:    松永賢
丸の内ギャラリー: 板谷龍一郎
GALLERYエクリュの森: 棚井文雄、鈴木丘
ギャラリー川船: 吉村芳生
ときの忘れもの: 宮脇愛子
GALLERY坂巻: 牧田草平

これはいいなと思ったのは、宮脇愛子さんの作品でした。古い作品に波長があってしまうのは、”うーん”どうなんだろう。
ちなみに、宮脇愛子さんは磯崎新さんの奥さんです。
せっかくですから、見るだけでなくアートフェアで作品を買ってみたいですね。でも、もう少し先かな・・・・・。

"プリュス"に関して詳しくは、WEBで検索してみてください。

ブログを始めます。よろしくお願いします。

今日から新しいブログを始めます。

アートに関して、見たこと、興味を持ったこと、感じたこと、想ったことを書いてみます。
ブログのタイトルは、ギリシャ神話で文芸を表すMusaと、英語の範囲・分野を表すsphereを合わせた、”MusaSphere"としました。

今までも自分一人のメモのようなブログを作って、言った展覧会を記録をしていましたが、それではコミュニケーションのツールとしてのBLOGを十分使っているとは言えないし、継続のモチベーションにも問題があると感じて、気力を振り絞って、新たなブログを作りました。

どんな展開になるか、私にも想像がつきませんが、どうぞよろしくお願い致します。